「 修辞学 」

古代ギリシアのポリスでは民主政治がおこなわれていました。

 

修辞学(しゅうじがく)というと、何やら難しい学問のようですが、

実はみなさん、「詩」のところでふれています。

比喩、体言止め、倒置法、反復法、対句法など、授業で学習しましたよね。

これら表現技法のことを修辞(レトリック)といい、修辞に関する学問が修辞学です。

古代ギリシアのポリスでは民主政治がおこなわれていました。

民主政治のもとでは、聴衆の前で自分をいかに魅力的にアピールできるかとか、また、

 

説得的に表現することができるかとか、そういうことが大切になってくるのですね。

そうすると、弁論術、説得術として活用できる修辞学の必要性が非常に高まってくるわ

 

けです。

きれい事だけでは生活はできない

そういう当時の状況下で、イソクラテスは修辞学の学校を設立し、生徒たちに

 

修辞学を教えました。

 

きれい事だけでは生活はできないので、それなりの授業料だったようですが、

 

それ以上のリターンが期待できたので、多くの生徒が集まったそうです。しか

 

し、イデア論を説き、理想を求める哲学者プラトンからすれば、真理を求め

 

ず、お金に走る彼らのようなソフィストたちは、けしからんということになるわけです。

現実をとるか、理想をとるか、現実世界を重視するか、理想世界を重視するか、臨機応変に対応するか、不変の真理

 

にこだわるか、2400年ほど前の昔も今も、人の営みは似たり寄ったりですね。

 

現代資本主義にとりこまれた私たちが、生きていくためには、パンを買うためのお金が必要です。


現実を無視して、人は生きることができません。

ここで、幕末の藩士、越後長岡藩 小林虎三郎の米百俵の話を思い出しまた。

「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵

 

となる」今風に言えば、「百万円のお金もモノを買えばたちまちなくなるが、

 

教育にあてれば将来の一億、百億円となる」といったところでしょうか。

お金を稼がなければならないという現実、より良い社会を築こうという理想 、ともする

 

と、相対立する現実と理想、この二つを止揚(アウフヘーベン)し、より高い次元に転化

 

するものが教育ではないかと思います。


 ドイツ観念論の哲学者ヘーゲルの弁証法ですね。 (* ^ー゚)