わが子には教育を !!真田幸村を訪ねて

大河ドラマ「真田丸」見ていますか。

打ち合わせのため、大阪へ出張。会議が早く終わったので、JR玉造駅に向かいました。

読者の皆さん、NHK大河ドラマ 「真田丸」 見ていますか。

 

年末にかけて、これからのストーリーを想うととても胸が痛く切なくなりますが、そんな真田のゆかりの地である有名な場所、三光神社に詣でました。

 

信州上田城から九度山を経て大坂城に入り、大坂冬の陣の時、ここで幸村が幕府軍と戦った 「真田丸」 があった場所です。

真田幸村に思いを馳せ、鳥居をくぐると、そこには「赤い幟に六文銭」が見えます。!また大坂城から続くとされる【真田の抜け穴跡】も残っています!

 

鎮座地の丘が真田山、かつてはここに大坂城の出城 「真田丸」 が置かれていました。

九度山の見張りをかわして大坂入城。


大坂の陣に参加して欲しいと大坂城の豊臣家から要請を受けた真田幸村は、蟄居先の九度山の見張りを上手くかわして妻子とわずかな手勢を率いて入城。

 

大坂の陣とは徳川家が豊臣家をほろぼすために行った戦いで、それが大阪冬の陣と大阪夏の陣と呼ばれる2つの戦いです。(大阪ではなくて大坂です)

親子は犬伏で密談。真田家の存続を図る


 

 

このときすでに豊臣秀吉は亡くなっていますので、秀吉の息子である豊臣秀頼と、秀吉の奥さんだった淀君を相手に、徳川家康がしかけた戦と言っていいでしょう。

 

2つ合わせて大坂の役と呼ばれることもありますが、この2つについて冬と夏、どっちが先だったっけ? とならないように気をつけましょう。

 

 

真田家は1600年、関ヶ原の戦いの折、父真田昌幸と弟幸村、兄信之の3人は下野国(栃木県)犬伏で密談し、昌幸と幸村は石田三成の西軍に、信之は徳川家康の東軍につくと決めた。どちらが勝っても真田家が存続するよう図る「 苦渋の決断 」 でした。

 

大坂の陣においても、兄信之は徳川方につき、幸村は大坂夏の陣で討ち死にします。信之は上田藩から松代藩に移り、松代藩真田家は幕末まで藩主を務め真田家は存続しました。

嫡男 大助の最後


親心は今も昔も変わらない

13~16才と伝えられている嫡男大助は父幸村と共に大坂に入城します。

ドラマ「真田丸」でも、大坂の陣で初陣を果たし見事に大手柄をあげた様子が映し出されていました。

その後、大坂城は徳川方の容赦ない攻撃を受けて、焼け落ち豊臣秀頼と淀君は自害をします。

これによって豊臣家はほろび、徳川家康の天下統一が決定づけられたのでした。

大助は幸村に最後まで付き従うつもりでしたが、幸村の説得に応え、秀頼に付き従うこととなり大助も秀頼に殉じます。

 

同じ年頃の息子を持つ親として美談では済ますことのできない複雑な感情が沸き立ちます。

 

わが子には教育を !!


江戸末期の子どもの就学率は70%をこえていたというから驚きだ。

そんな江戸時代の教育事情はどのようなものであったのであったのでしょうか。

江戸時代は封建社会。武家は支配階級だから、それにふさわしい教育を受ける必要がありました。

学ぶのは藩校である。その藩校の最高峰が今の東京大学にあたる「昌平坂学問所」。一般庶民が通うのは寺子屋。

 

寺子屋は思想的な教育は一切なく 「読み・書き・そろばん」が中心。武士・僧侶が教師となり 「手習い師匠」 と呼ばれ最低限の知識を身につけさせることを目的に勉学に励みました。

 

この二極化した教育機関の隙間に存在したのが『私塾』です。

 漢学塾、国学塾、洋学塾など教師の特技を生かした講義がなされ、寺子屋出身が私塾に通うケースも多かったようです。

 

この当時、人気があったのは「洋学」。蘭学に始まった洋学熱は次第に、英学、フランス学、ドイツ学など、外国語を中心とした学問へと広がりを見せ、語学とともに外国の進んだ見識を学べることが 「洋学」 の魅力だったのでしょう・・・。 決して裕福ではなかった時代ですが、江戸末期の子どもの就学率は70%をこえていたというから驚きです。

親心は今も昔も変わらない

時代は違えても、そんな幸村の子供に対する無念さ、激動の生涯に想いを馳せて、戦のない泰平の世に感謝するとともに、子どもには予見できない将来に備えて、勉学に励みしっかり力をつけてもらいたい、そして親としての責任を果たせねばと心に誓い、三光神社を後にしました。